神川町渡瀬の切支丹(キリシタン)宗門寺院「善明寺」

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交通の要所渡瀬本宿

 渡瀬村の西を流れる神流川の対岸には藤岡市新町(中山道)から鬼石町を経由し十国峠を越えて信濃路へ向かう十国街道が通っています、それと平行するかたちで本庄(中山道)から元阿保経由して鬼石町で十国街道と合流する街道筋が在り渡瀬本宿はその街道筋の宿場でありました、それら二つの街道筋は二箇所で鎌倉街道と交差して中世以降人の往来も頻繁であり渡瀬本宿は交通の要所と成っていました、また如何なる理由かはわかりませんが江戸期、上野国(群馬県内)特に高崎近辺には隠れキリシタンが数多く存在していたと云われそれらの事から渡瀬村に切支丹(切支丹)宗門が布教したと考えられます。

 秩父山中に逃げ込んだ隠れ切支丹(キリシタン)

 山口平之進以下渡瀬村の切支丹(キリシタン)信徒を一掃した時点で既に布教の波は近隣の村落へと広まっていたのです。

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(群馬県藤岡市鬼石町)

 古来より中山道の裏街道である十国街道筋の宿場町で江戸期には庭石などに使われる三波石の産出で財力を貯えて繁栄し交通の中心地と成っていました。

(鬼石町西の三波村集落)

更に信徒が見つかる

 1656年(明暦2年)上野国との国境である神流川を越えた鬼石町の三波村で百姓利兵衛の訴えにより百姓掃部(かもん)ら6名の切支丹(切支丹)信徒が新に見つかります、彼らは召し捕らえられ投獄され厳しい取調べを受けた末に全員獄死させられたと云います。

(神流川対岸の十国街道筋)

善明寺河原で殺害される

 山口平之進ら切支丹(キリシタン)信徒達は捕らえられ善明寺の西方で神流川ぞいの善明寺河原で斬殺されました、切支丹(キリシタン)宗門寺院である善明寺は徹底的に破壊され更に山口平之進の領地は没収されたのです、そにより切支丹(キリシタン)信徒は一掃されたかに思われたのですがしかし事態はこれでは収まりませんでした。

(山口平之進ら信徒が殺害された善明寺西の善明寺河原付近)

(渡瀬村本宿を抜ける街道筋)

(渡瀬村本宿)

 山口平之進は善明寺の門前に従者の中金、竹内の二名を門前百姓として配置したと云われています。

 山口平之進は現在の児玉郡渡瀬地区に切支丹(キリシタン)宗門寺院善明寺を建立します、その位地は渡瀬の中心地である本宿付近であったと考えられます。

切支丹(キリシタン)宗門寺院善明寺

 キリスト教は1549年(天文18年)イスパニアの宣教師フランシスコザビエルにより日本国内へ初めて伝えられます、当初切支丹(キリシタン)宗門は下層、上層階級を問わず爆発的に布教が進み大友宗麟など切支丹(キリシタン)大名を誕生させるに至りました、更に織田信長が京都、城下安土に切支丹(キリシタン)の寺院、学校を設立し切支丹(キリシタン)を迎え入れ保護を行います、その間キリスト教は九州、近畿、関東、東北へと広まり16世紀末には大凡その信徒の数が15万人に達していたと云われています、しかし豊臣秀吉が政権を握ると切支丹(キリシタン)宗門はイスパニアの植民地政策の先駆けと見なされ弾圧が行われ徳川幕府が成立すると切支丹(キリシタン)への弾圧は更に強化されて1637年(寛永14年)島原の乱が勃発します。
 さて武蔵国内においても同時代にキリスト教が布教されていた痕跡がいささか残っています、島原の乱鎮圧から17年後の1655年(明暦元年)武蔵国児玉郡渡瀬村(現児玉郡神川町渡瀬)で下級武士の山口平之進(寿庵)らが切支丹(キリシタン)宗門の布教の罪で捕らえられ斬殺されました、既に1639年(寛永16年)幕府が禁教の強化と切支丹(キリシタン)宗門であらざる事を証明させる目的で宗門人別帳の制度を定めた後に幕府の直轄地でキリスト教が布教しはじめたのかわかりませんが山口平之進ら切支丹(キリシタン)信徒達は後々の弾圧を十分に承知しての布教活動であったと事は確かです。

(神川町渡瀬本宿の切支丹寺院善明寺イメージ)